サリエリの事

誰だかが、あの美しいモーツアルトの音楽を称して「透明感のある哀しみ」と云ったが、云い得て妙な言葉だと思う。10代の頃、実はモーツアルトをあまり好きになれなかった。聴いた音楽に偏りがあったせいもあろうが、当時中心に聴いていたロマン派の音楽に比べると、劇的な要素が少なかったせいだと思う。特にベートーヴェンの音楽に比べ、どこか薄っぺらいものに聞えていたのである。モーツアルトを聴くようになったのは社会人になってからで、何をきっかけに聴くようになったのかは憶えていないが、途中夢中になってしまった時期があった。特にピアノコンチェルトに夢中になり、20番、21番、23番、24番、27番辺りが好きであった。それらの曲に、まさに「透明感のある哀しみ」を感じていたのである。そしてその時期には、べートーヴェンの存在はほぼ頭の中から消えていた。死んだらモーツアルトのレクイエムを流して欲しい等と思った事もあったが、ケネディー大統領の葬儀の時に流されたのがモーツアルトのレクイエムであった事を聞き、確かにこの曲は大統領級の人物にこそふさわしい曲なのだという気がしてきて、私ごとき者には不遜だと断念したのを覚えている。

 

モーツアルトとの出会いの極め付きはクラリネットコンチェルトであった。この曲を聴いた時、まさにモーツアルトの音楽が「天上の音楽」である事を実感した。特に第二楽章が天国的で、この曲を聴いてしばらくは、どうして人間であるモーツアルトが神の領域である筈の「天上の音楽」を作る事が出来たのだろうかと、不思議な気がしたものである。モーツアルトが天才なのは、神童と言われわずか5才で曲を作ったという事でも、35年と言う短い生涯の中で600曲以上もの曲を作ったという事でもない。このような、真正の天上音楽を作った点にあるのである。

 

ミロス・フォアマン監督の「アマデウス」はサリエリの視点からモーツアルトを描いた映画だが、宮廷で勢いを持つ音楽家サリエリが、モーツアルトの音楽に触れる事で、その天才性に嫉妬し、やがてモーツアルトを毒殺するに至るというストーリーであったが、いつの時代にも天才的人物の背後には、その天才の姿を羨望や憧れの目で、時には嫉妬や憎悪の目で見ている幾人ものサリエリがいたに違いないのである。今はどうか知らないが、私の中学時代、音楽室の壁に年代順にバッハから、ヘンデルハイドンモーツアルト、べートーヴェン、シューベルトシューマンショパンベルリオーズメンデルスゾーン、ベルディ、ブルックナーマーラードボルザーク、ドビッシ―、ラベル、バルトークシベリウスチャイコフスキー当たりまでの、著名な音楽家達の肖像画が貼られていたのを思い出すが、モーツアルトが天才の代名詞のように云われるが、モーツアルトに限らず、恐らくそれら肖像画に描かれた音楽家達はその世界の歴史に名を残しているという意味でそれぞれが天才であったに違いない。

 

歴史をひも解けば多様な分野で歴史的人物に出会う。歴史に名を残すという事は、他に類例を見ない並外れて優れた働きをした事の証であろうから、天才である事の証でもあろう。そういう意味では歴史上の人物はだれもが例外なく天才なのだと思うが、という事は、歴史的人物の周りや背後には、歴史上の人物を自らを切磋琢磨する対象としていたもの、その人物から単純に学ぼうとしたもの、その人物がいる事で己の力のなさを自覚し意気消沈しているもの、その人物に心酔しひたすら憧れの目で見つめているもの、願わくばその人物にとって変わろうと虎視眈々としているもの、嫉妬からその人物を亡きものにしようと策謀を練ってるもの等々、様々な種類のサリエリ的人物がうごめいていたに違いない。

 

まあ見方によればこの世の中は、一握りの天才と幾人かのサリエリ的人物、そして無名の無数の大衆から成り立っているのであろう。でも映画「アマデウス」を見る限り、サリエリの立場でいるのは結構しんどそうな気がするので、私ごとき凡人は、無数の大衆の一員でいるのが幸せなのかもしれない。