オリンピックに想う

今年は東京オリンピック開催の年である。1964年に1度東京オリンピックは開催されているから、東京、いや日本でオリンピックが開催されるのはこれで2度目で、2回開催された都市はこれまで、アテネ、ロンドン、パリ、ロサンゼルスの4都市のみである事を考えると、東京という都市はアジアのみならず、世界的にも存在感のある都市なのだとやや誇らしくも思える。冬季オリンピックを加えると、札幌、長野が加わり、日本でのオリンピック開催は4回になる。ただここに来て一抹の不安材料が現れた。それは新型のコロナウィルスの広がりである。オリンピックには世界中から日本に人が集まってくる訳だから、新型コロナウィルスの脅威の終息が長引くようであれば、状況次第では開催も延期せざるをえないのではないかと思うが、こんな危惧を感じているのは恐らく私だけではないであろう。今から、いつまでに終息すれば予定通りオリンピックを開催する事が出来るのだろうかとヤキモキしている。

 

ところでオリンピックである。クーベルタン男爵が唱えた標語に「参加する事に意義がある」という言葉があるが、これまでこの言葉を聞く度にやや違和感を感じてきた。違和感を感じる理由が3つほどある。

 

まずは、その言葉に何やら偽善ぽいものを感じるのである。意味する事は分かる、分かるがどこか素直にうなずけないのである。それは、人の命は地球より重いとか、何かというと平和という言葉を持ち出すとか、そんな風潮に感じる違和感に似ている。理想の標榜だから綺麗だし受けはいいが、でもリアルな現実とは遊離している。そんな感じがある。スポーツの原点は恐らく「走る」「投げる」「飛ぶ」であろうが、それらを源としたいろいろな競技があり、それら競技のそれぞれの最高峰を決める競技会がオリンピックであろう。最高峰を決めるというのは世界一を決めるという事で、世界一を決めるというのは、競い合いで順位を決めるという事である。世界一は、競って競って命をかけるように競い合って初めて得られる果実である。人は順位がつくと真剣になる。人は真剣なものを見ると夢中になる。夢中になるのは面白いからである。そして面白さを担保しているのは、一級のアスリート達が真剣に命がけで競い合っている姿である。オリンピックは参加すればいいというようなやわな場ではない。勝つために鍛えに鍛えた体で乾坤一擲の勝負をかけている場である。そこにあるのは「参加する事に意義のある」世界ではなく、ただただ「勝つためにだけにある世界」なのである。

 

二つ目は、冬季オリンピックの登場と共に感じ始めてきたもので、それは世界には雪や氷の存在しない場所に住んでいる人が相当数存在するのではないかと思いから生じたものである。夏季オリンピックの競技は、典型的にはトラック競技であるが、これには参加しようと思えば誰でもが参加出来る。何故ならスピードの速い遅いは別として、走るだけだから、足さえあれば誰もが出来るスポーツだからである。ところが冬季オリンピックはそうはいかない。全ての競技が雪または氷の上で行われる。雪や氷など見たこともないであろう、例えば赤道直下の熱帯地方に住んでいる人達に出来る競技に思えないのである。日本に住んでいる人でも、スキーが出来ない人やスケートの出来ない人はいくらでもいる。そういう人達に、「参加する事に意義があるのだから」と参加を促したところで、スキーやスケートが出来ない訳だから参加は出来ないのである。要するに冬季オリンピック夏季オリンピックと異なり、参加の出来る人の限られたスポーツ競技会なのである。「参加する事に意義がある」という言葉の背景には、誰でもが参加できるという平等精神があるように思うが、どうも冬季オリンピックはこの精神に反しているように思う。だから、冬季オリンピックにはオリンピックという名称をつけるべきではないのではないかと思う。オリンピックという言葉を使わず、例えば「雪と氷上の競技大会」等と呼べばいいのではないか。

 

三つ目は、これも冬季オリンピックがらみの話なのだが、冬季オリンピックには標語にそぐわない別の問題がある。これはこれで相当やっかいな問題なのだが、冬季オリンピックの競技はほぼどの競技も、技術的に普通の人の行えるレベルを超えたものばかりのような気がする。感じる範囲で云えば例えばスキーのジャンプ、あの高さの滑り台からスキー板を着けて滑り降り、そこからさらにジャンプして飛び出す、まさに曲芸で、誰もが出来る競技には思えない。直滑降にしても回転競技にしても、転倒したらどうなるか分からないような怖さを秘めているし、フィギアスケートも、氷の上でどうしてあんなに飛んだり跳ねたりする事が出来るのだろうと、どこかアクロバティックで人間離れしている。ボブスレーリュージュ等に至っては、ジェットコースターを自ら操作しているような競技で、スポーツというより度胸試しの領域に近い。これらはどれも私には、いや私のみならず、誰もが出来るとは思えない競技ばかりなのである。うまく出来るかどうかは別として、夏季オリンピックでこれは自分には出来ないなと思う競技は体操と棒高跳びぐらいで、走るれるからトラック競技は出来るだろうし、円盤や砲丸を投げる事も、走り幅跳び三段跳びも、やろうと思えば出来ると思う。バスケットボールもバレーボールも、サッカーやレスリングや柔道もうまくは出来ないが、やる事は出来る。水泳も泳げるから競泳に参加は出来る。でも冬季オリンピックには、出来そうに思える競技が見当たらないのである。冬季オリンピックは、「参加する事に意義がある」という世界から外れたスポーツ大会のような気がしてならない。