光秀と信長

今年のNHK大河ドラマの主人公は明智光秀だという。明智光秀大河ドラマの主人公になるというのはやや以外で、大河ドラマもあまり長く続いたため、いよいよ人物ネタが枯渇してきたのかと思った。それは明智光秀に、主君に対する裏切り者という暗いイメージが付きまとっているからではない。あの強烈な個性が飛び交う戦国時代にあって、輝くような個性が感じられないからである。本能寺の変に関しては今も様々な黒幕説が飛び交っているが、このような説が飛び交うのも、明智光秀が単独で大事を実行する程の器量がない人物と思われていたからであろうし、本人にとってはなはだ不名誉な話であろうが、確かに人物としてそんな印象はある。

 

明智光秀はいろいろ評価の分かれる人物だとは思うが、でも織田軍団の中で、丹羽長秀滝川一益の地位を越え、羽柴秀吉柴田勝家と共にベスト3の、見方によっては信長に次ぐNO2の地位にいたとも思える人物であったし、三日天下とはいえ一時天下人であった事も事実であろう。そしてあの冷徹極まりない織田信長の配下の中でベスト3までの位置にまでのし上がっていた事を考えれば、人並み以上の胆力や軍事能力、国の統治能力などを持った人物であったに違いないと思う。そういう事から考えれば、他人の教唆などで大事を成すような人物ではなかったであろうから、本能寺の変は、実行した理由はともかく明智光秀が自ら考え自ら実行した事変であり、黒幕など存在していなかったと思っているが、この人物には今一つ英雄性が希薄なのは事実である。

 

戦国時代は数々の英雄豪傑を生んだ時代だが、横綱級を織田信長豊臣秀吉徳川家康とすると、大関クラスに武田信玄上杉謙信毛利元就伊達政宗がいる。まあこれら7人がおよそ戦国時代の主役になろうが、実はその周りには名脇役ともいえる魅力的な人物が幾人かいる。実はそれら名脇役に主役以上の興味を感じているのだが、名脇役だと思う人物に、まず真田昌幸松永久秀石田三成の3人がいる。この3人は、恐らく何らかの形で既に大河ドラマの中に登場しているとは思うが、実は明智光秀を主人公にするなら、あの強烈なアクを放つ松永久秀当たりを主人公にして欲しかったものである。

 

ところで明智光秀というとやはり織田信長であろう。日本史上この人物ほど稀有な人物はいない。時々実は実在する人物ではなく、こんな人物がいたら凄いと人が頭で勝手に創作した人物ではないかと思う事がある。織田信長は軍事面、経済面、文化面あらゆる断面で独創的である。この人物の独創性は、長篠の戦における鉄砲の使い方において有名だが、最近の研究では、実は三段打ちはなかったという説が有力になっているようだが、それが史実であったかどうかはともかく、この逸話は織田信長の独創性を語るにあまりある。この人物を語る時まず云えるのは、この人物が登場する事で戦争の仕方が変わってしまったという事がある。兵農分離である。一年中戦える軍隊を編成した事自体革命的なのだが、さらに凄いのは軍隊を5つの方面軍に編成した事である。これにより同時に多方面で軍事行動を起こす事が可能になったのである。ヨーロッパで方面軍が登場するのが30年戦争時だったというから、織田信長はヨーロッパの50年も前に軍事上のイノベーションを起こしているのである。そういう事から考えれば、織田信長は世界史レベルの人物だったのである。ちなみに他の軍事面での独創性に、世界で初めて鉄製の戦艦を作った事がある。

 

経済面で云うと楽市楽座がある。これは流通の規制緩和であるが、これに伴い敵の侵攻を抑えるため狭くうねっていた従来の道路が、荷車などが通行しやすくなるようにと整備され、商品流通が活発になる。その結果到来したのが経済成長である。戦国時代は高度経済成長時代と云われるが、それは織田信長の政策によりもたらされたと云っていい。そして文化面では千利休に代表されるような茶の湯がある。でも私が最も興味深く思っているのは、他の戦国大名には見られない独特の生き様である。「人間五十年、化天のうちを比ぶれば、夢幻の如くなり・・・」、信長は戦場に出向く時、常にこの謡曲「敦盛」を舞ったという。そしてこの謡にあるように、およそ50才で死んでゆくのである。その運命的附合に詩的とも云えるドラマを感じるが、それ以前に戦いの前に「敦盛」を舞うという姿勢に何やら凄みというか天才性を感じるのである。そしてもう一つ、定まった拠点を持たなかったというのが面白い。最後に安土城を作るものの、それまでは騎馬民族のように次々と前進する先を拠点にしている。即ち移動しながら采配を振るっているのである。このような生き様に、虚無観というか無常観というか、この人物の持っている独特な人生観を感じる。信長は著作を書いたり自らの考えを人に語ったりもしていないが、その業績の軌跡を追っていくと、この人物は業績で思想を語った人のようにも思えてくる。

 

信長の最終拠点は安土城である。建物は現存していないものの残った資料から再現した姿を見る限り、宝塔や摠見寺など宗教的要素も多く、天守の5階には仏教世界が描かれ、最上階の6階には古代中国の伝説上の帝王である新農や黄帝、そして孔子老子が祭られている。また夜には天主を提灯でライトアップする等、軍事拠点というより見られる事を意識した、いわば信長ワールドのアトラクションのようなお城である。この信長精神を具現化したと思える安土城を見れば、およそ信長がどんな人物であったが分かる。安土城は、戦いのための拠点というそれまでの城の概念を覆した、いわば革命的な城なのである。

 

これまでに見られるように織田信長は実に独創的な人物ではあるが、一面苛烈で残忍な人物でもあった。それは世に知られた比叡山や長島一揆の焼き討ち、伊賀の乱などのジェノサイドに象徴的に見られるが、ヨーロッパには見られるが日本にはない歴史的事象にジェノサイドと長期籠城戦があると云われるが、実は唯一、織田信長においてこの両方が見られるのである。日本における長期籠城戦というのは10年以上続いた石山合戦の事である。このような面でも織田信長という人物は日本離れしているのだが、信長の業績を俯瞰していくと、ジェンサイドなどの狂気を含め、実は信長は、政治家というより芸術家(思想の表現者)の領域に入る人物なのではないかというような気がしてくるのである。