第九シンフォニーの事

今年は、日本でべートーヴェンの第九シンフォニーが初めて演奏されてから100年目の年だという。知る人も多いと思うが、第一次世界大戦で日本に降伏し、四国の鳴門市に設置された捕虜収容所に収容されていたドイツ兵により、収容所内で即製に結成されたオーケストラにより演奏されたものが日本初の第九演奏であったという。それは同時にアジア初の第九演奏でもあった訳だが、捕虜が収容所内で演奏したという事実が実に興味深くドラマチックである。

 

時の捕虜収容所の所長であった松江豊寿という人物が実にユニークで、戊辰戦争の際の敗軍会津の出身で、降伏した側の屈辱や悲しみを見ながら育っていた事もあり、ドイツ兵捕虜を「祖国のために精一杯戦った勇士」と捉え、捕虜には敬意をもって接していたという。そんな事からこんな捕虜収容所が実際にあったのかと思う程に捕虜が自由に振る舞う事の出来た収容所であったようで、捕虜であったドイツ兵達の多くはそんな所長の対応に感謝し、帰国してからも家族や子供達にその時の状況や所長の人格者ぶりを尊敬の念を持って話していたようである。そんな事から1974年には、鳴門市とドイツ・リューネブルク市との間で姉妹都市盟約が結ばれ、現在もほぼ1年おきに「親善使節団」の交流を行われているという。

 

そんなエピソードと関係があるのかないのか分からないが、日本ではべートーヴェンの第九シンフォニーの演奏が大晦日の恒例行事になっている。これは世界的に珍しい現象で、大晦日に第九シンフォニーを恒例行事にしている国は他に見られないという。生国ドイツでは、ベートーヴェンの第九シンフォニーは例えばベルリンの壁の崩壊時に演奏されたように、特別な時にのみ演奏されるような大事な曲で、そう年がら年中演奏される曲ではないようである。では日本で第九シンフォニーの演奏が大晦日の恒例行事になっているのはどのような理由からなのであろうか。これは誰にもよく分からないようであるが、でも第九シンフォニーが大晦日に演奏される意味は何となく分かるような気がする。それは「苦悩から歓喜へ」というこの音楽の持つテーマ性にあるように思う。生きていると色んな事がある。いろいろ悩み事もある。老いる悩み、病気の悩み、恋の悩み、仕事の悩み、人間関係の悩み、経済的悩み等々、現実は悩みが多い。だから来年はいい年でありたい、そんな願望を皆が持っている。だから年末の挨拶は「いいお年を」なのである。だから年末は「苦悩から歓喜へ」なのである。

 

そういえば来年2020年はべートーヴェン生誕250年だと云う。来年は定めし世界各国でべートーヴェンの曲の演奏が繰り広げられるであろう。ベートーヴェンというと日本では一時期、小学校の教科書などで耳が聞こえないのに偉大な音楽を作った努力の人という形で紹介される事が多かったため、音楽家としてというより、修身の教科書の中の人のようにして知られる傾向の強かったのだが、ではこの音楽世界で最も有名と言ってもいいべートーヴェンとは、そもそもどのような人だったのであろうか。一言で云えばそれは、音楽史上の革命家と云っていい人である。それまでの音楽が宮廷の社交の場のものであったものを、市民のものに変えてしまった人であり、また音楽を、思想を表現するものという見方によれば小難しいものに変えてしまった人でもある。そしてその思想性は第九シンフォニーにおいて特に強く、それまでシンフォニーの中に人の声を入れよう等と思った者などいなかった中、シラーの詩に触発され、シラーの世界をシンフォニーの中で表現する事で「人類讃歌」のメッセージにしようと、シンフォニーの中に人の声を取り入れたのが第九シンフォニーなのである。そして全人類へのメッセージなのだからソロの声だけでなく様々な人の声をと、合唱という形式を採ったのである。

 

「真の喜びとは」という事から始まる第九シンフォニーの最終楽章は、冒頭からしばらくは「真の喜びとはこれですか」とそれまでの楽章のテーマが次々に流され、その都度「それは違う」と否定されていく構成になっている。そしてその後に、これこそが真の喜びなのだと登場するのが例の「歓喜の歌」なのだが、「歓喜の歌」を始めて聴いた時、実は「えーっ何これは」と少々落胆したものである。それはあまりにも凡庸なメロディーであったからで、人の心をわしずかみするような感動的な曲を次々と世に送り出したあのベートーヴェンが、最後になって何故こんな凡庸なメロディーを思ったからである。しかし後年ある音楽評論家の解説で、何故「歓喜の歌」が一見凡庸なメロディーなっているのかを知り、「なる程そうか」と思い直した。「人類の讃歌」というテーマ性から考え、「歓喜の歌」は全人類に対するメッセージでなければならない。だから、老若男女の誰もが理解のできる分かりやすい音楽でなければならなかったのだという事であった。ところでこの第九シンフォニー、ともすると最終楽章の「歓喜の歌」の部分のみが歌われたり聴かれたりする事が多いように思われるが、この曲は、あの宇宙の黎明のように始まる冒頭から聞き込んでこそ、一見凡庸なメロディーである「歓喜の歌」が意味を持ってくる曲で、そういう意味では初めから通して聴かないと意味のない曲のように思える。